本年の1月3日にNHKがニューイヤーオペラコンサートを中継しました。日本を代表する一流の歌手約20人が出演されましたが、その中にソプラノ歌手の田村麻子さんが居りました。田村麻子さんは幼少時寺田宮ノ谷に住んでいて、深谷小学校および東城陽中学校で学んでおり、私の3女と同級であったことから、可愛い姿を憶えております。中学を卒業した頃、父親の転勤で東京に転居し、東京芸大を卒業後アメリカに留学し、現在は欧米
戦後の暗い世相の中で、庶民に笑いを提供してくれたのが浅草で活躍していたエノケン(榎本健一)、ロッパ(古川緑波)、シミキン(清水金一)達コメディアンでした。私はシミキンのファンでしたが、当時テレビなどなく、映画でしか彼らの姿を見ることができず、先生に隠れてよく見に行ったものです。シミキンが堺俊二(正章の父)と組んで主演した映画「浅草の坊ちゃん」の主題歌「浅草の唄」(サトーハチロー、万城目正、藤山一郎
一年ほど前、由紀さおりショーが文化パルク城陽でありました。家内ともども由紀フアンで、さっそく駆けつけました。公演ではジャズも数曲歌われ、私の好きな「You will be so nice to come home to 」も、きわめて流暢な英語で歌われました。もともとジャズを歌っていたペギー葉山やフランク永井などは別格にしても、石原裕次郎や美空ひばりたちも流暢な英語で歌われます。多分、微妙な音の違
ブルースは日本の歌謡曲にも多くみられます。例えば、夜霧のブルース(ディック・ミネ)別れのブルース(淡谷のり子)赤と黒のブルース(鶴田浩二)などです。ブルースはもともとは「黒人の嘆きの歌」といわれ、哀れな境遇を嘆く弾き語りうたでした。やがて、ブルースというジャンルが確立したのは、ルイ・アームストロングが歌った「セントルイスブルース」によるといわれています。 一方、エルビス・プレスリーによって一躍世界
拉致されて北米に連れてこられた黒人たちは、もともと先祖伝来の宗教を持っていましたが、部族や家族がバラバラにされたため、その宗教を伝承することができず、やむなくキリスト教の信徒になりました。 そのキリスト教をベースにした彼らの歌が黒人霊歌、あるいはゴスペルソング、として歌い継がれています。過酷な境遇の中で、希望の光をあの世に見出そうとしたのが黒人霊歌、この世に見出そうとしたのがゴスペルソング、といわ
ストレッチどころか、歌に心の救いを求めた人々がおります。そうです、拉致され、奴隷船に詰め込まれ、北米大陸に連れてこられた黒人たちです。彼らは1人ずつ競売に付されたため、部族や家族がバラバラにされ、集会も禁じられ、孤独と絶望の中で仕事をしながら歌に救いを求め、歌の大衆文化をつくりあげて行きました。ジャズ・ブルース・黒人霊歌・ゴスペルソング・ロックンロール・ピップポップなどです。 米国サウスカロライナ
前回はメキシコの「マリアッチ」に触れましたが、中南米で生まれ発展したラテン音楽も魅力に満ちています。もう半世紀も前の話になりますが、結婚した頃、待望のオーディオセットを購入し、ぼちぼちレコードを買い始めましたが、ある日大阪曽根崎界隈のレコード店に寄ったところ、クリスマスセールのキャンペーンをしていて、クリスマスプレゼントに応募してくださいと勧められました。どうせ当たりはしないだろうと思っていました
メキシコでは、マリアッチという音楽会が盛んです。ソンブレロに長靴姿の楽団員が楽器の演奏とコーラスでムードをあげ、客席の人々がそれに呼応して、歌い、手拍子をとり、舞台と客席とが一体になって、まことににぎやかな音楽会です。写真撮影や録音は自由ですが、飲食は禁止されているようでした。 メキシコにはマキラドーラという経済特区があって、税制面で優遇されているために日本企業が多く進出しています。
昭和21年にバタやんこと田端義夫が歌って大ヒットした「かえり船」(作詞:清水みのる、作曲:倉若晴生)は当時の世相を表し、人々の共感を得たことがヒットにつながったといわれています。昭和21年は終戦から1年が過ぎた時で、海外に展開していた軍人さんの復員や、居留民の引揚が本格化した年です。懐かしい日本の土地に踏み入れて、流れているこの曲を聴き、自分の境遇とあわせて哀愁をおびた曲と詩に心の琴
現役時代、仕事で英国・バーミンガムを何回か訪問したことがあります。ホテルの近くに瀟洒なパブがあって、ここで1ポンドコインをカウンターにおいてジントニックを飲むのを楽しみにしていました。ここにはピアノがあって、おじいさんがいつも弾いて客を楽しませてくれていました。あるとき、ある曲を弾いていたら客の1人がピアノに合わせて歌い始めたところ、他の客も追従し、店中に歌声が響き渡りました。聞いたことがあるよう