元旦の朝。
年末に貼り替えられた障子から暖かい朝陽が寝床に射してくる。6畳の和室には 5人の子どもが枕を並べて寝入っていた。長男と末弟の年齢差は10歳、4男 1女の枕元には正月用にと用意された真新しい下着一式と新しい下駄と足袋、 そして、それぞれの名前を書いたポチ袋のお年玉が置いてあった。当時の我が家の経済状況で、5人の正月用の準備や年玉を工面するのは大変だったろうと思う。子どもの喜ぶ姿・顔を見るのがが両親の喜びであったのだろう。親ってそんなもの…。
今から80年ほど前、終戦前後の元日の朝、幼き頃の我が家の事々が今なお、 両親への思いと共に懐かしく想い出される。我が家は裕福とは言えなかったろう。小作人の二男として苦労した(よく団らん時に昔の話をしてくれていた)父と商家の長女であった母、共によく働き子どもファーストで、今思えば様々な「愛」を感じる家庭であった。
特に元旦の朝、父が「雑煮ができたぞ!はよう起きや~」という声と共に、枕もとに用意されている下着、正月用の服を着て枕の横に置いた年玉「年玉、なんぼ入ってる」とまずは関心事だった。
祝膳につく前に正月飾りがされている神棚に手を合わし、家族そろって神様に一年の無病息災を お祈りして祝膳につくのが我が家の慣わしであった。
正月三が日の祝膳雑煮の準備は父の役割となっていた。父は除夜の鐘を聞きながら京都八坂神社へ「をけらまいり」に出かけた。八坂神社でいただいた「をけら火」を、おくどさん(かまどのこと)の火種としていた。雑煮は白みそ仕立てで昆布の出汁、大きなお椀にはモチと頭芋が入っていた。
※“をけら火” … 八坂神社の「をけら灯籠」に灯された「をけら火」が夜を徹して焚かれる。その「をけら火」を火縄(吉兆縄)に点し、火を消さないように縄をくるくると回しながら持ち帰り、無病息災を祈願して神前の灯明や正月の雑煮を炊く火種とする新年の習わしが「をけら詣り」燃え残った火縄は、火伏せ(火難除け)のお守りとして台所に祀る。お詣りをしていただいてきた。
「頭芋、くわえを食べんと頭にならんぞ!」と、父は言う、どうもこの食べ物は口に合わず苦手だった。モチは事前に子どもたちに食する個数を聞いて準備してくれた。白味噌の雑煮は「旨い!」いまだに我が家の雑煮は白味噌仕立てだ、息子、嫁も正月には妻に別腹とか言っては、やはり、「旨い!」と言って食している。孫もだ!ただ、私は父と違い、いつも通り妻が年末から準備した祝膳を食する。父にはかなわん(笑)と今も思う…。
さて、親が苦心した年玉は一体何に使っただろうと、思い出そうとしても確かな記憶はない。氏神さんのお祭りの時にもらった小遣いは、神社に出店している店で「金魚すくいや、げそ焼き」等に使っていたことを想い出すが…、年玉は貯金していたのだろうか? そんなことない。しからば、正月が終われば「貯金しといたげる」とかの言葉に従い、親に差し出していたんだろう。
正月の終わりは、3学期の始まりだ! 宿題もあり3ケ日の終わりは何かもの悲しく寂しいと感じた記憶がある。正月には両親兄弟と百人一首やトランプ、双六、飽きると、羽子板や凧揚げ、野球バットを持ち公園へ…、今のゲイラダコと違い奴たこって懐かしい、子ども同士では羽子板で羽根つきもやった。今はどうだろう? ゲーム、スマホに熱中する子ども、大人がいる。
いつも不思議に思うのは(これが当然なのか?)食事に来ている親子ずれ、遊園地で遊ぶ親子ずれ、殆どがお父さんも、お母さんも、子供までもがスマホとにらめっこ…、会話しているようなそぶりもなくスマホに夢中!食事が運ばれてきても、口に食べ物をほり込みながら、なお、スマホという親子もある。これは、 一部かもしれないが、時代は変わった。それでも親と子の情は変わらないと信じる私・・・。正月が来れば両親兄弟と共に氏神さんにお詣りしたその日ことが思い出される。