過日、NHKあさイチ“妻からバトンタッチされた60代男性の台所”が放映されていた。 小学校の教職にあった63歳の男性が、妻の脳梗塞、左半身不随という不幸に見舞われて、妻に代わって苦闘しながらもポジティブに家事全般を担い、退職後の人生において主夫を担うことになった実際を事細かく放映していた。 一昔前・・・日本の男性高齢者が家事を担っている割合は他国と比べて目立って低く、ほとんどの 家事は妻をはじめと
結婚するまでは母親が…、結婚してからは妻が…「なんでこんな状態になるまで飲むん!」と夜遅く酩酊というより泥酔して帰宅、おまけに悪酔いをしている私を嘆き、詰(なじ)りながらも横たわる私を介抱してくれていた。 今から65年程前(昭和34年:1959年) 職場の先輩・後輩・同輩がうち揃って一升瓶片手に円山公園での花見酒、ある時は50畳ぐらいの広間に座しての大宴会…、誰歌うとなく「江州音頭」「花笠音頭」手
勝手なときの神頼み・・・。 人は平穏無事に過ごしているある日、困ったときや、ちょっと思うに困難に立ち至った時に、日頃の無信心も忘れて、神棚や神社仏閣へお参りして手を合わせる。まさに、私は勝手な時の神頼み派で、母親は私の高校進学時や就職試験の結果待ちの時に、合格を願って東丸神社(伏見稲荷大社境内内)にお参りしてくれていた。 その両親の影響は知らず知らずに、東丸神社、立木観音、石切り神社、薬師寺が私の
「お父さん、バス酔いの薬、効かなかったょ!」『そうか、酔うたか?』 今から15.6年前の息子との会話である。 少子高齢化が進む今と違い、昭和48(1973年)年頃は学校では教室が足らずプレハブ教室を増設することで児童急増に対応していた。 遠足や修学旅行にはバスを何台も連ねるという時代でもあった。当時、バスと言えば議員の後援会活動や企業の慰安旅行などの交通機関は、やはりバス何十台も連ねて観光地を回り
食糧事情の厳しい時代に…、 竹製の飯盒に詰められた昼飯につられて、竹林作業の手伝いに励んだ昔 竹製の三段お重の飯、おかずはというとチリメンジャコが白米の上に散り交ぜられているだけ…それが、美味い!今でもはっきりと覚えている。 チリメンジャコは醤油味がつけられて白米上にのせられている。今思えばたわいのない昼食弁当だ!それが、60数年前と思えないほど想い出す。 竹製の三段飯盒は保温力もあり竹林の土入れ
男子厨房に入らず (だんしちゅうぼうにはいらず) 男子厨房に入らずとは、≪この言葉の元になった修辞は「君子、庖厨を遠ざくる也」という 『孟子』にある言葉との説もあるが…≫俗には、男は台所に入って料理を作るべきではないという意味になっており、男女の役割が固定していた時代の言いぐさである。この年齢になると別だ。 今では、たまに料理を作るのはいいが、材料費にやたら金をかけて凝ったものを作る割にはうま
今年は“大根”が豊作だ! 太くって長くって安い。 想い出すのは “じゃこおろし” 大根と言えば・・・、おでん.ぶり大根.煮つけと即座に答えられるほどに、家庭料理には欠かせない野菜だ。他に凝ったメニューもある。(胡麻油香るさつま揚げと大根の煮物.鶏肉と大根の煮物.大根の照り焼き炒め.ブタバラと大根のミルフィーユ鍋.大根とブタバラの味噌バター煮等々) 私は妻の薄味でしっかりと煮込んだ鶏肉との大根煮が好
『地震・雷・火事・(おやじ) 阪神淡路大震災の被害の恐ろしさ、災難、打ちのめされても“時”は過ぎゆく。 1995年1月17日、マグニチュード7.3震源地は淡路島北部、死者6,000人をはるかに超える大惨事発生の10日ほど後に、私は動いていたJRに乗り、JR西ノ宮駅下車後に神戸兵庫区平野 から東灘地区(御影.青木地区)の親戚の伯父さん、叔母さんを訪ねて被災地を歩いていたのである。その途中で見る被害の
★年末のある日、久津川JR踏切から東に走行する私へ、パトカーから『前の車、左によって止まってください!』警告の声である。私のことだな…。停車した私の車の前にパトカーは停止、警察官が2人駆け寄ってきた。初体験のことだ。若い警察官は、私に「踏切一旦停止されなかったですよね」と、断定的に話しかけ、私に交通法規違反を告知した。 私は警告を聞き停止した時に『JR踏切一旦停止違反での停止命令』と理解し止まった
断捨離実施男 長年、年賀状(〒)を頂いていた60人程の皆さまに、2022年の年末に出した 年賀状(〒)で、少し柔らか表現ながら『2024年から年賀状(〒)を卒業させて頂く』内容を込めた挨拶をさせて頂いた。 滋賀県立木観音さま石段 現役時代に浅からぬご厚情を頂いた方がほとんどであった。加えて、近隣で日ごろご厚情をいただいている方や親戚も含めて年賀状(〒)の卒業と、今後は日常生活においても変わらぬご