一年ほど前、由紀さおりショーが文化パルク城陽でありました。家内ともども由紀フアンで、さっそく駆けつけました。公演ではジャズも数曲歌われ、私の好きな「You will be so nice to come home to 」も、きわめて流暢な英語で歌われました。もともとジャズを歌っていたペギー葉山やフランク永井などは別格にしても、石原裕次郎や美空ひばりたちも流暢な英語で歌われます。多分、微妙な音の違
ブルースは日本の歌謡曲にも多くみられます。例えば、夜霧のブルース(ディック・ミネ)別れのブルース(淡谷のり子)赤と黒のブルース(鶴田浩二)などです。ブルースはもともとは「黒人の嘆きの歌」といわれ、哀れな境遇を嘆く弾き語りうたでした。やがて、ブルースというジャンルが確立したのは、ルイ・アームストロングが歌った「セントルイスブルース」によるといわれています。 一方、エルビス・プレスリーによって一躍世界
拉致されて北米に連れてこられた黒人たちは、もともと先祖伝来の宗教を持っていましたが、部族や家族がバラバラにされたため、その宗教を伝承することができず、やむなくキリスト教の信徒になりました。 そのキリスト教をベースにした彼らの歌が黒人霊歌、あるいはゴスペルソング、として歌い継がれています。過酷な境遇の中で、希望の光をあの世に見出そうとしたのが黒人霊歌、この世に見出そうとしたのがゴスペルソング、といわ
ストレッチどころか、歌に心の救いを求めた人々がおります。そうです、拉致され、奴隷船に詰め込まれ、北米大陸に連れてこられた黒人たちです。彼らは1人ずつ競売に付されたため、部族や家族がバラバラにされ、集会も禁じられ、孤独と絶望の中で仕事をしながら歌に救いを求め、歌の大衆文化をつくりあげて行きました。ジャズ・ブルース・黒人霊歌・ゴスペルソング・ロックンロール・ピップポップなどです。 米国サウスカロライナ
前回はメキシコの「マリアッチ」に触れましたが、中南米で生まれ発展したラテン音楽も魅力に満ちています。もう半世紀も前の話になりますが、結婚した頃、待望のオーディオセットを購入し、ぼちぼちレコードを買い始めましたが、ある日大阪曽根崎界隈のレコード店に寄ったところ、クリスマスセールのキャンペーンをしていて、クリスマスプレゼントに応募してくださいと勧められました。どうせ当たりはしないだろうと思っていました
メキシコでは、マリアッチという音楽会が盛んです。ソンブレロに長靴姿の楽団員が楽器の演奏とコーラスでムードをあげ、客席の人々がそれに呼応して、歌い、手拍子をとり、舞台と客席とが一体になって、まことににぎやかな音楽会です。写真撮影や録音は自由ですが、飲食は禁止されているようでした。 メキシコにはマキラドーラという経済特区があって、税制面で優遇されているために日本企業が多く進出しています。
昭和21年にバタやんこと田端義夫が歌って大ヒットした「かえり船」(作詞:清水みのる、作曲:倉若晴生)は当時の世相を表し、人々の共感を得たことがヒットにつながったといわれています。昭和21年は終戦から1年が過ぎた時で、海外に展開していた軍人さんの復員や、居留民の引揚が本格化した年です。懐かしい日本の土地に踏み入れて、流れているこの曲を聴き、自分の境遇とあわせて哀愁をおびた曲と詩に心の琴
現役時代、仕事で英国・バーミンガムを何回か訪問したことがあります。ホテルの近くに瀟洒なパブがあって、ここで1ポンドコインをカウンターにおいてジントニックを飲むのを楽しみにしていました。ここにはピアノがあって、おじいさんがいつも弾いて客を楽しませてくれていました。あるとき、ある曲を弾いていたら客の1人がピアノに合わせて歌い始めたところ、他の客も追従し、店中に歌声が響き渡りました。聞いたことがあるよう
もう7年も前のことになりますが、ふるさと(大分県玖珠町)の友人から「おだち集まれ」という新聞広告を受け取りました。「おだち」とは方言で、よく言えば「何事も前向きで、積極的な人」、悪く言えば「目立ちたがりな人」という意味で、動詞は「おだつ」です。幕末から明治にかけて、村の殖産興業に大きな功績を遺した先達の活躍をテーマにしたミュージカルの出演者を募集する広告でした。「おまえも結構おだちだからな」「どう
欧米を旅行すると街角で楽器を演奏する姿が多く見られます。私が小学校に入学した頃、満州国のハルビン市(現、中華人民共和国ハルビン市)に住んでいました。ハルビンはロシア人が建設した街で、多くの白系ロシア人が住んでいました。四階建アパートの中庭にロシア人夫婦がしばしばやって来て、バラライカとバイヤンで荒城の月など日本の歌曲を演奏し、生活の糧を稼いでいました。母の指示で、前に置かれたシルクハットの中にコイ