亡き母の想い出・・・

泥棒に入られた!  茫然自失、 厳しい現実に耐えて…

泥棒… 丁度、私が小学3年生の秋だったと記憶する。

やんちゃ盛りで遊び惚けていた私、近くの原っぱで夢中になってヤンマー・トンボを追いかけていた。

その時、『ご飯やで~早く帰っておいで~』 と、母の呼ぶ声…忘れもしない夕焼けのきれいな空、自宅からわずか2~3分のところにある空き地で遊んでいた兄弟を呼びに来てくれたのである。

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わずか5分も留守にしていなかったであろう、その時、我が家に、空き巣が入っていたのである。

母はすぐに帰る、近くだということで、鍵をかけずに呼びに来てくれたのである。わずか5,6分の間に忍び込んだ泥棒は、奥の座敷にあったタンスから、父の一張羅の礼服.背広、母が大事にしていた大島紬などの着物類と長男の修学旅行用にと、しまっていた服などゴッソリと盗っていったのである。

戦後で物資が乏しい当時は現金よりも物盗りが横行していた。鍵をかけてこなかった為に味わった悲惨さは、その2年前に患った4歳の妹の難病で

負った大きな借財と出費に輪をかけた苦難の連続だった!今、当時を振り返って、母の悲痛な顔と言葉が思い出される。

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昭和23年(1948年)頃の話で、長男小5年を頭に0歳の弟まで5人兄妹と近所では子沢山の家庭だった。

母は神戸東灘御影の商家の娘として生まれた。米屋.酒.氷屋.炭練炭など何でも屋・雑貨屋と手広く商いをしていた裕福な家庭に生まれた。

20歳の頃、京都伏見深草の地主(土地改革前の豪農)の家に行儀見習いに来ていたそうだ。 その時、小作人(貧農)の父と大恋愛に陥ったそうだ。母の両親は大層怒って、その結婚に大反対・・・・

(後で、母から聞いた話だが…両親は地元の教職にある人との結婚を計画していたそうだ)

困った父は行儀見習い先の地主の旦那に頼み込んだ。旦那は小作人の二男坊の父を連れて神戸御影の母の実家に赴き、『私が責任を持つ、二人の結婚を許してやって欲しい』と掛け合った末、父母はようやく結婚にこぎつけたのである。この話は私が成長してからよく聞かされた。

当時、恋愛結婚は稀であったようで、そうした経緯で私達がこの世に誕生したのである。私もその話を聞くたびに、いつも大恋愛に憧れたものだ。

父は結婚を機に近くの軍事工場に勤め、旋盤工・仕上げ工として、めきめき腕を上げていき結婚生活は安定していたようだ。 ところが、父が務めていた工場は軍需工場だった、終戦と共に平和産業へのスムーズな切り替えができず、順調だった給料も 遅配欠配で、勤勉で働き者の父は生活を維持するために、休暇を取得し、他に収入の道を求めた。

003両親と毎年頭に参拝した石切神社

懸命に土方仕事などの副業にも頑張りとおし、母は母で特技である編み物仕事に精を出して、必死に切り盛りしていた。その姿は今でも忘れられない。

そうした時、難病に罹った妹の治療費は長い年月借財となり、戦後の厳しい状況と相まって、我が家の苦境は想像に絶する状態であったそうだ。

そうだというのは…私が成人してから折に触れて、この時の苦悩を、どうして凌いだかを父母が話してくれた。

私自身幼いながらも決して忘れられない母の姿として思いだすのは、苦労を苦労とせず子供に精一杯愛情を注ぎ、笑顔で接してくれていた当時のひとこまひとこまの情景は忘れられない。

思い出される特筆な話は、私が苦境に立った時に思い出す母の姿である。それは…日銭欲しさの為に精を出す母・・・母はコタツ布団に下半身を入れてて,懸命に毛糸の編み物をしていた姿だ、夜半、目覚めた時も一生懸命に編み物をしていた姿、そして、朝起きてみると私の枕元に編みあがった毛糸のセーターが置かれていた。母は『このセーターを〇〇さんに届けてお金をもらって来てね』と、私に告げた。

私は朝早くその〇〇さん宅にセーターをもって行き、なにがしのお金をもらってきた。 その編み物の代金を遠足代として学校に持っていくようにとのことだった。子供の遠足代、給食代、本題等々、子沢山の家庭には大変な出費であったろう。

こと左様に厳しい状況の中、両親は勤勉に前を向き、愛情一杯、慈悲の心で子育てに奮闘してくれていた。

辛抱強く、しかも、慈愛に満ち、子煩悩であった両親の子育てについて『親の背中を見て子は育つ』と言われるが…とてもその域には届かず、及ばないが、厳しい状況の中でも夫婦助け合い、慈しみ合っていた 両親、心を豊かにするための工夫を凝らしていたポジィティブな姿勢は、私にも大きな影響を与えてくれていたと、感謝の念、禁じ得ない。

年老いた母がふと漏らした言葉『終戦後の厳しい時代から今日まで、子だくさん(4男1女)の就学、 就職、結婚への道筋は振り返れば一瞬だった…

御影から京都に越して70年、息子たちが幸せな家庭を築いてくれていることで、よかった。』と、しみじみ語ってくれたことに涙する思いだ。

私はこの母の思いに十分こたえることができたろうか… 喜んでくれていたろうか?と自問する我が歳80歳に、90歳で逝った母の歳に近づいてきた。