❛旅の思い出❜はつきない!鮮明にだ!  私の旅の始まり。想い出の序曲は…

この歳になると・・・・

❛旅の思い出❜はつきない!鮮明にだ!

私の旅の始まり。想い出の序曲は…

新和歌の裏の海岸のひとこま、桜花爛漫の紀三井寺だった。そして、榊原温泉、小豆島寒霞渓、大山寺と大山の宿、天童市の豪華旅。宿の食卓と仙台空港、十津川温泉に熊野川船下り・熊野大社、高野山の宿坊、長野の善光寺、上高地:白馬の旅、乗鞍、鳥羽民宿、白浜‥‥と続き、数えきれない程、父・母との旅の思い出が蘇ってくる。

あの旅、この旅、耳に残るあの言葉、宿の食事中、いつも母が『爺さん…あげ膳・据え膳で、美味しいものを食べて結構やな~』と自分に言い聞かせるように、肯いての言い癖が私には忘れられない。

(喜んでくれていたのであろう)

 

旅の思い出の始まりは新和歌の浦・紀三井寺…、私が社会人になった頃、父が私に望んだ旅だった。

桜花爛漫頃、紀三井寺の楼門から登る231段の急な石段と見事な桜が今も目に残る。そして、新和歌の浦の海岸線の岩の上でカメラに向かいポーズする若々しい父、父、働き盛りの48歳?

あの時から20年数年、結婚・子の誕生・城陽に転居・昇進に昇職と目まぐるしくも充実した年月であった。この間の旅は子供を交えた両親との旅で、私を勇気づけ、家族の絆を深めてもくれた。

紀三井寺石段・さくら

それにもまして孫と祖父・祖母の想い出を作る旅でもあった。 榊原温泉…オシメと粉ミルクを持参し、おい紐で長男をおぶった妻、そして、両親…

長じて小学生の長男・二男、両親と旅した小豆島寒霞渓、近場の宇治の宿、夜空に繰り広げられる花火の音と絢爛豪華さにはしゃぐ我が子、親孝行の真似事と5~6年は続いたろう、近場で毎夏恒例の一夜も、亡き両親を偲ぶときの語り草となっているからして、うれしい旅であった。

『旅』の計画も両親の加齢と共にマイカーが大きな役割を果たすようになってきたのは30年余り前だ!

私が遅咲きで運転免許を取得したことにより、旅は公共交通からマイカーの旅に変貌した。そして、行動範囲も広くなり、両親を後部座席に妻を助手席にと息子たちの成長につれて、妻と両親との4人の旅が多くなった。

計画は頗るハードだった、旅の総走行距離は殆どが

1泊2日、或いは、2泊3日で500㎞から1000㎞とすべて私がハンドルを握っての旅だった。

当時のマイカーは中古のシビックだった。狭い後部座席、冷房の効きがかんばしくない乗り心地の悪い車の後部座席に母と父は文句も言わず、団扇をバタバタと楽し気に旅を喜んでくれていた。

親父が喜ぶところ、母が楽しんでくれるところと計画して誘ったのであるが…、いつも二つ返事で同行してくれた。その時の父母の年齢は70歳を超えていたのではないか?

上高地、乗鞍、大山、十津川、熊野大社、長野善光寺、宇奈月のトロッコ・・・ を主目的として、周辺の地、観光名所をハンドルさばきよく周遊したのである。

乗鞍岳 駐車場

こうした周遊の中で忘れられない父の名言は『91歳の翁が乗鞍に登ってきましてん!』と自宅前を道行く人たちに、乗鞍土産の傘をかぶり、息子と行った乗鞍の自慢話をしていたことと、もう一つは、仙台空港に降り立つ 歳老いた両親の姿を見た時である。

丁度、私が天童市に出張した時に、一泊余分に宿をとり、両親を呼び寄せた時の光景である。

東京まで新幹線できて、その後、東京在住の私の弟(三男)に導かれ羽田空港に、そして、仙台空港まで来てくれたのである。 その時の父母は90歳前であった。

不安そうな挙動をして、キョロキョロしながら私を探しているその姿に、涙あふるる思いであった。

勿論、豪華旅館で一夜を過ごし、父が望んだ松島、瑞巌寺を参拝し、近場でとれとれの握り寿司をふるまったのである。

旅には3つの楽しみがあるというのが私の持論だ。

旅を思いついた時は、

一つ、綿密な計画を自分で作り、旅の栞を作る。計画した旅の夢を同行者と語り、膨らませる。

二つ、旅の途中は楽しむこと、味わうこと、見ることに 集中し、本番を目一杯、同行者と楽しむ。

三つ、旅を終えて写真整理と旅の思い出を心に刻むと共に雑感をしたためる。同行者と想い出にふける。

こうした旅が私の人生をどれだけ豊かにしてくれたことか、妻との二人旅は新婚旅行以後、とどまるところなく北は利尻、稚内、根室、南は宮古島、石垣島、そして、各地離島をはじめ、温泉地をめぐる旅を楽しんだ。

貧乏旅行あり、豪華三枚の旅も…、金婚プレ旅行と称しての旅は数回、本番金婚旅行も滞りなく楽しみ…

これからは近場でコロナ感染予防を考えながら温泉にでも浸かり、うまいもんを食べる旅を計画していきたいと考えている。旅は道ずれ世は情け・・・『よきものだ!』 (完)