終戦記念日・広島・長崎原爆追悼式典

ストレッチの会、会報8月号掲載の『終戦記念日に思う』投稿転載

      

◎ 性別  男  終戦を迎えた時の年令 9歳 

                その時の住まいは ピョンヤン

私にとって8月15日は終戦の日ではなく、敗北の日です。 疎開先の北朝鮮のピョンヤンで敗戦の日を迎えました。ソ連兵がマンドリン銃を持ち、戦車とともになだれ打って入ってきました。その後は引率者の判断が生死を分けました。平和をどうやって維持するか?

◎ 性別  女     終戦を迎えた時の年令 3歳

父は満州で現地出征し、残された母は私たち4人の姉妹(当時0歳~11歳)を連れ内地に引き揚げて参りました。33歳の若さで戦争未亡人になった母は、子供達の成長だけを生き甲斐と楽しみに生き、平成7年に84歳の天寿を全うしました。毎年終戦記念日には、人の希望や人生を変えてしまう戦争は二度と繰り返してはならず、世界からなくなることを願うとともに、母からもらった数々の喜びや感動に感謝、母の苦労を想い、母に恥じない生き方を姉妹で考え、語り合う日となったおります。

◎ 性別  男   終戦を迎えた時の年令 3歳 

                  その時の住まいは 滋賀県

私の父がフィリピンで戦死したとの通知があったのは昭和20年10月の中頃でした。その年の春に場所は覚えておりませんが、祖母と母に連れられて父が出征前にいたところ(大きな広いグランドみたいな所でした。‥)へ面会に行きました。戦争というものがどんなものか未だわからず父親に抱かれて遊んだのをボンヤリ覚えています。それが最後になるとは、つゆ知らず父の笑った顔が今でも忘れられません。今国会で安保法案が審議されていますが、人と人とが殺しあうそんな戦争が絶対あってはならないと強く思います。

◎ 性別  男   終戦を迎えた時の年令 3歳 

               その時の住まいは 山口県の山村

終戦直前。パンツ1枚で遊ぶうち、村役場の空襲のサイレンに駆け逃げる私。B29からの銀紙の投下。夜は食事中の灯火管制。私の生まれた寺院の参道は、竹ヤリ手に髭面で疲れきった姿の予科練部隊で埋まっていた。沖縄海戦での叔父の葬儀もこのころだ-。3歳半ころの夏。幼いのになぜ覚えているのか不思議だ。強いインパクトがあったからだろう。脳裏に消えずに残る。そして、70年後の今、ここに立つ。不思議な思いだ。

◎ 性別   男   終戦を迎えた時の年令 2歳

                  その時の住まいは 京丹後

私は京丹後で昭和22年に生まれました。従って「終戦っ子」です。父が戦地から無事帰ってきて私が生まれました。  幼き日の食糧難を体験しました。 今、政府の戦争法案の説明を聞いていて、平和への  危機感を強くいだいている一人です。   (尼塚男性)

 

 

字句に制限がある中、投稿された方々の70年前の実体験、思いが字句に込められている。戦争、原子爆弾、原発事故、自然災害の悲劇、惨事は時の流れと共に風化され、時の潮流、為政者の思い込みにより随分と危なくなっていくと感じているのは私だけであろうか? しっかり見つめ、しっかり発言する役目も、老いを重ねる者の責任ではなかろうか?

原爆記念式典における広島、長崎の市長の式辞に思いをいたすとき、被爆者は勿論、戦中戦後の厳しい時代を潜り抜けてきた者の思いからするとき『もうちょっとストレートな物言いができないものか?』といらだつ思いである。

長崎市長の式辞に会場から大きな拍手が二度、三度と湧き起ったことにも、被爆者、その関係者の気持ちが感じられた。

今日のニュースでは川内原発の再稼働が報じられていた。意見が分かれるところである。しかし、福島原発の後処理がまだ遅々として進まないこの時期に、再稼働に踏み切る… 原発安全神話の繰り返しにならねばいいが…  sy