正道官衙遺跡公園には万葉植物(樹木.低木)30種類が植樹されている。その根元に万葉の句が石碑に書かれている。 表題の句は「椿」
巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ思(偲)はな 巨勢の春野を
持統天皇が紀伊の国に行幸された時の坂本人足が読んだ歌、つらつら椿(茂った葉の間に点々と連なって花をつけている椿の木)偲はな(あるものを媒介として眼前にないものを慕わしく思い浮かべる意。椿のない晩秋で、花咲く春のさまを思いやる)巨勢山(こせやま)
万葉の植物名 30種とは…
ねむ やなぎ つげ つばき やまたちばな しらかし うめ つつじ やまざくら しい えのき こなら くぬぎ にれ はぎ うのはな やまぶき からたち まゆみ かつら つき(けやき)ふじ あしび かわやなぎ(ねこやなぎ)なし なつめ ゆずる もも たちばな まつ
30種の木々を詠んだ句が書かれている石碑30基 順次 木々を詠んだ句の紹介と解説をこのホームページで行いたいとと考えています。
↑溝に落ちた枯葉を掃く管理人さん ↑寒風の中雑草除去作業 ↑石碑と万葉の木々
正道官衙遺跡公園の管轄は教育委員会文化体育振興課文化財保護係である。年間予算により雑草除去、枝木の剪定、芝刈り、防虫薬剤散布等が定期的に行われ、3人の管理人さんが日々清掃に努めておられます。遺跡公園としては正道官衙遺跡公園の他に、森山古墳公園、芝が原12号古墳公園がある。
↓土.日曜日、祝日には老若男女が遊ぶ、朝夕はウオーキングを楽しむ人多数
正道官衙遺跡は・・・
1965年(昭和40年)、台地西端の池畔で瓦片や土器片が見つかり、古代寺院があったと推定され、当初は地名をとって「正道廃寺跡」と名付けられました。 1973年(昭和48年)2月からの大規模な発掘調査で寺院跡とみるより奈良時代の郡衙(役所)中心部分と推定される掘立柱建物群跡が見つかり、 1974年(昭和49年)には「正道遺跡」(しょうどういせき)と改名されました。その後、付近では部分的な発掘調査を続けた結果、遺跡西側にも建物群跡のあることが分かっています。 この遺跡は、5世紀の小規模な古墳と、6世紀後半から7世紀にかけての集落遺構、そして7世紀以降の整然と配置された大型の掘立柱建物群からなる官衙(かんが)遺構などが重なりあう複合遺跡となっています。特に、官衙遺構は、歴史・地理的背景や出土遺物などから、奈良時代の山城国久世郡の郡衙中心部であると推定されます。1974年(昭和49年)9月12日に城陽市では最初に国の史跡に指定され、翌年3月に史跡地全体の約10,850平方メートルが公有化されました。
この遺跡は、発掘調査後、埋め戻されて長い間広場になっていた。 その後、遺跡の保存と活用を図りながら、積極的にまちづくりに生かしていこうという機運が高まり、1989年(平成元年)2月に文化庁の指導を得てこの遺跡を含む城陽市内全5か所の史跡整備構想が策定されました。そして、翌年にはこの官衙遺跡の整備基本計画が作られ、1991年(平成3年)10月から整備工事が着工され、1992年(平成4年)11月に工事が完成し、史跡公園として遺構の一部が復元されて芝生や万葉植物を配した広場として整備されています。 ( ウィキペディア フリー百科事典より )