能登半島地震の被害の凄まじさ、悲惨な報道に阪神淡路大震災、東日本大震災の被害状況を彷彿する私  

『地震・雷・火事・(おやじ)

阪神淡路大震災の被害の恐ろしさ、災難、打ちのめされても“時”は過ぎゆく。

1995年1月17日、マグニチュード7.3震源地は淡路島北部、死者6,000人をはるかに超える大惨事発生の10日ほど後に、私は動いていたJRに乗り、JR西ノ宮駅下車後に神戸兵庫区平野 から東灘地区(御影.青木地区)の親戚の伯父さん、叔母さんを訪ねて被災地を歩いていたのである。その途中で見る被害の凄さ、悲惨な光景は今もって脳裏に焼き付いている線路はぐにゃり、惨状・・・。

芦屋川のほとりに林立していた4・5階建ての瀟洒(しょうしゃ)な住居ビル、阪急沿線に立ち並ぶ大きな木造の屋敷、2階建ての木造蒲鉾長屋の殆どが腰砕けのように、1階が2階、3階と重なり上層階に押しつぶされている。1階の住民は恐らく圧死しているだろう。その地震の恐ろしさを、この目で見続けた神戸の街の光景が能登半島地震の被害状況と重なり思いだされる。

阪急電鉄の線路はいがみ、電柱は傾き架線は垂れ下がり、阪神高速高架道路は高架道路そのものが平面道路に横倒れしているではないか・・・。親戚の人たちの安否が気遣われたが、平野の叔母さんは家屋全壊でベツドの上で圧死、東灘のおじさん宅は新築であったが一部損壊、伯父さんだけが離れの部屋の壊れたハリで圧死されていた。

特に東灘地区は地面が隆起し、そこかしこに亀裂が走り、活断層の地殻変動のエネルギーがここまで平穏な人間社会を破壊してしまうのかと凄まじさに慄きを感じた。地震とはこんな被害を…。

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立入禁止杭行き向うび汚染土を詰めて黒い袋 ↑大川小学校の校舎と校庭(廃墟)あの山に逃げれば…

東日本大震災勃発した5年後(2016年)福島空港から青森までの国道106号線、46号線をひたすら東へ、災害地や立入禁止行為周辺に車を停めて驚きながら見、写真を撮りながら  レンタカーで東北3県(福島.岩手.青森)のまだ癒えぬ被害地の復興をつぶさに見て回った。

テレビ、新聞報道に見る津波や福島第1原発被害・帰還困難・立入禁止地域・区域の復興の現実や、津波被害で逃げ遅れた大川小学校の児童の悲劇の現場をこの目で見て、しっかり、報道では感じ得ない現場を、現実のものとして感じることができればと出かけたのである。

3泊4日の旅程で自然災害・原発事故の復興報道と、つぶさに見た現実の差異を実感した。その差異は極めて深刻で、特に大川小学校の廃墟の校舎・校庭と運動場向こうに見える避難でき そうな低山を見た時に感じたのは、立地条件からして日頃の防災訓練と防災意識の欠如に加えて、危機意識の醸成欠如が招いた悲劇だと憤りすら感じた。

更に怒りで心を暗くしたのは『原発安全神話』を声高に主張し自然災害の備えを怠り、原発を電気事業の根幹にと、しゃにむに突き進んだ時の政府、電気事業者の責任は免れないと強く思う程に、福島第二原発放射能被害は深刻で目を覆うどころか怒り心頭であった。

この現況はテレビの画面や新聞の活字では表現できないほどの惨状であり5年後の現実だった。安易な復興の報道は慎むべきだと思いながら、放射能危険立入禁止区域標識内に見える廃屋や積み上げられた気の遠くなるような数の除染土黒袋を眺めたものである。 能登大震災で想起するのは、福井原発だ!他にも地震活火山帯の上にある原発だ!東北福島原発の惨状を忘れてはならない!

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↑福島原発放射能危険立入禁止区域には警備員が常駐して監視している。(警備員は地域住民の収入源)

自然災害は予期せぬ時に、壊滅的で想像を絶する被害を住む人達に試練として与える。能登に限らずあらゆる災害に遭遇した嘆きの人達を容赦なくテレビは放映する、可愛い3人の幼子妻を一瞬に失った警察官の嘆きの姿は我が涙腺を容赦なく刺激する。地震被害、土砂崩れ、水害、津波、類焼火災で肉親を失い、家屋を失い悲嘆にくれる人たちも、時間の経過と共に生き続けなければならない。

苦を背負い己の生きる道を生き抜かなければならないところに残酷さがあろう。今平穏に生きる私たちは平穏な日常の中で防災意識を研ぎ澄ませ、どう生きるかを問われているのだろう。 yamashin