親しき方が「天寿全うして?」鬼籍へ

今夏、三者三様の死の報を受けた。MさんもHさんも偶然に入院先から私の携帯電話に近況を知らせてくれた。Tさんは奥様から電話で…。

Mさんは本人曰く「不整脈で心臓術後、1週間で 歩行リハビリしています」と連絡を頂いた。「もうすぐ退院します」とも言い添えてくれていた。

Mさんは『退院後は100歳まで元気に生きて、孫たちの成長を楽しむ』と話していた私への電話連絡後、数日で『生』への強烈な思いを残して逝ってしまった。入院から死への直行便に飛び乗ったようで、思う通りにはいかない『人の生』を感じる。

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★Hさんは「肺がん術後1年目で再発し、肺に水がたまるから、その処置のために入院している」「ちょっと、暇やから電話させてもらった」と、退院も近く、容態もいいので、暇つぶしに連絡してきてくれたと思っていた。が、後になって思い浮かぶのは、自分の 余命を考えての惜別の電話ではなかったかと心が痛む。

★Hさんは若いころはヘビースモーカー、酒豪で、爽やかな容姿とユニークな発想、実行力で瞬く間に一部上場の役員にまで上り詰めた。

70数歳で退任、その後は趣味の古文書を極めるために龍谷大学で学び、同好の人たちと古文書楽しむほか、ゴルフ三昧、家庭菜園にもいそしむ等、人生良きかなの日々を実践する元気な人だった。電話をもらった3ケ月後位に、気になったのでHさんの様子を聞くべく奥さまに電話をして訪問した。すると、彼は退院して帰宅していた。

様子を聞くだけで帰宅しようとしたところ、本人が会いたいとのことで応接間に通され、時間にして5分位であったか? 余りにしんどそうなので、Hさんを励まし帰宅した。不思議なことに…、Hさんのことが気になったので暑中見舞い状を投函した。その投函した日に 奥さまからHは今日逝きましたと電話連絡を頂いた。葬儀の当日に暑中見舞状は届いた。

★弔問し奥様から聞いた覚悟の2年半の療養…

Hは2年半前に、かかりつけ医の診断で早期の肺がんを診つけて頂き、紹介で大阪

のK病院に入院、肺の一部を摘出した。

もともと元気なHは突然のがん宣告であったが、転移もなく退院した。退院後はゴルフに家庭菜園、古文書にいそしむ日常を楽しんでいた。ところが、1年後 K病院での定期健診で肺がんが再発していた。

★診断後、Hは妻と医師に話した言葉は…

「もう、手術も抗がん剤もすべていらない」「すべての延命治療は望まない」「入院もしない」と言い放った。病気とは思えない日常を過ごしていたHが、全てを覚悟し、決断した言葉であったと奥さまは私に話された。その日から7ケ月後に奥さま、息子・娘の家族に看取られて、苦しむことなくHは逝ってしまった。ご自宅で私と面談した時から、2ケ月余り後にHは逝ったのである。享年84歳であった。

ほぼ寝たきりとなった自宅での闘病期間は7ケ月、死の5ケ月前には息子・孫とのゴルフラウンドも楽しめたが、その後、2ケ月ほどの間は、衰弱も激しく苦痛に対しては、自宅でかかりつけ医の緩和ケアを受け死を覚悟する日々であったそうだ。奥さまはただじっと見守るだけの日々であったそうだ。

★Hが東京事務所勤務を命ぜられたときに、ひとり娘の奥さまを知り、恋に陥り結婚したという程に、素敵な人生を共にした奥さまが、Hの決断を受け入れて、臨終まで取り乱すことなく気丈に振舞っておられたことも、二人の子息、孫たちも生と死の狭間に呻吟するHの闘病生活を受け入れて見守られたことも…。私はHの潔さ?我がまま?を周囲が認め、本人の強い意思を尊重されたことに、ある種の感動を覚えた。

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❤一方Tさんだ。

私とTさん・奥様とのご縁は10数年に及ぶ。

Tさん一家は滋賀県木之元のお百姓さんで、旅行の帰り立ち寄った道の駅でTさんの羽二重もち米を購入したのが始まりで、以後、毎年、白米と羽二重もち米をTさん宅に赴き購入していたのである。昔の庄屋さんだったという大きなお家に、夫婦してお暮らしで、心豊かな農村の日々を夫婦して楽しんでおられるとお見受けし、毎年、11月初旬に私たち夫婦して訪問するのを楽しみにしている。いつも、手作りのあんこ一杯の『おはぎ』を用意いただき、座敷で渋茶とともに食させていただき、晩秋の琵琶湖畔ドライブとともに楽しみな年中行事でもあった。

☆ところが、Tさんは転倒骨折・寝たきりという、よくある状態となられ、大きな家の一室を自宅療養部屋に改造して、静かな日々を過ごされるようになった。

日当たりのよい部屋で終始まどろまれるTさんの横で小物の手芸を楽しみながら見守られ、時には穏やかな会話を楽しまれていたそうだ。Tさんは『もう何にもいらん、お前がそばにいてくれたら…』と、静かに話し、逝かれた。享年93歳。まさに天寿全うだ!

三者三様に一杯良き想い出を残して、逝ってしまった。 悲しいことだ。