今『主夫』をやっている。主夫といっても完全な主夫でないところが救われる。
“覚悟”をもって生きる年齢に立ち至っている… そのことについて考えてみよう。
考えてみると、結婚して49年 我が家は妻が掃除、洗濯、台所…主婦としてすべて完璧にこなしてくれてきた。 『きた』という過去形に表現したのは わけがある。後段で触れてみよう…
今、はやり言葉で “イクメン” とか “ごみだし” “買い物” とか、従来女性が主として行っていた家庭内の細々としたことにも、男性が大きくかかわり役目を果たすようになってきた。
健康維持で始めたプールウオーキングも早9年目、ついつい購入してしまう帽子好きお洒落も楽しみの一つ
戦中派の私は母から『女の子に生まれてきてくれたらよかった』と話されていた程で小学生頃には、母親から頼まれた家事をそれなりに行えるようになっていた 結婚してからは妻が健康に恵まれていたことも含めて、すべて安心して妻におんぶにだっこで『男は仕事…外で頑張って~』との妻の思いを果たすべく頑張ってきたが…、よく聞く『うちの人はな~にも出来ませんの!』『お湯を沸かしてラーメンぐらいがやっと!』と嘆く、よその奥様方の嘆きに対して、私はいつも『俺は違う大丈夫!』『いざという時には…なんでもOK』と内心うそぶいてきた。
フイットネスクラブスタジオで楽しむことも… 正道官衙遺跡清掃ボランティアもまた楽し!
ところが…今年に入って、3月ごろから様子が変わってきた。
男が家事全般をしなければならなくなった時というと…妻が亡くなるか、愛想をつかして家を出ていくかの理由で “独り暮らしになった時” か、妻が病気になって何もできなくなり、息子・娘に… 嫁に頼ることが出来ない状況に立ち至った時、この時は 自分の “食” “衣” “住の清潔保持” はやらなければいけないでしょう。
ゴミ屋敷にするわけにもいかず、食べないでおくことも… 掃除も洗濯も買い物も… 家計の管理も…これは大変だ! 気まぐれに手伝うということではなくてこれをやらなくては生きていけないとなると大変だ!
妻は今日まで病気という病気を患ったこともなくて、まこと 私を困らせるということがなかっただけに… 気持ちとしては『よし、俺の出番だ!』『今まで本当によく頑張って来てくれた!』『俺がお前の手となり足となりすべてやるから、任しといて!』と殊勝な気持ちと言葉で励ましたのであるが…
妻の病気は、“手根幹症候群”という耳慣れない症状で発症する難病だ!今は服薬で随分と発症当時と比較すると、指先のしびれ、痛みも和らいできたようであるが、4ケ月経過した現在、症状は両手の親指、人差し指、中指先、薬指の半分がしびれ、痛む症状はなくならず、両手のくるぶしから指先までがポンポンに腫れている。ものをつかめない、ボタンなどはめる細かい動作はできないということで痛みやしびれ、腫れという原因からくる不自由さは相当に辛そうだ。故に私が主夫をしているのである。
症候群とは?インターネットで調べてみると…
- 根本となる一つの原因から生じる一連の身体症状、精神症状を指す言葉
- 身体にみられるようになった病的変化、症候が多彩かつ纏まった状態で形成されみられる病的状態
と説明されており、体の各部位の症状に対して沢山の病名“○○症候群”が有ることに驚いた。 (少し長くなるがこれからが本筋… おゆるしください)
明るく、楽しく、何でもない…という風に振る舞い行っている主夫の細々としたこと、内心思うに『妻は今まで何の愚痴も漏らさずに、当然のようにしっかりやって来てくれたんだな~』と改めて感心しながら感謝の思いがこみ上げる。
今三度三度の食事の用意(献立などはボケ防止のために妻に考えてもらう)食事の後片づけ、風呂の掃除、掃除機を使った清潔保持、買物同行などが今の私の仕事だ。妻は洗濯と物干しに干す作業はやってくれている。しかし、大変だ!
登校時見守りも続けて10年以上…義務感より交わす挨拶の温もりがこれまた楽しい!留学生の第九仲間女性に招かれてマレーシアへ 披露宴で日本、台湾、カンボジア、マレーシアの人たちとの交流も楽しい。
何が大変というと… 決まった時間に決まったことを考えながらやらなければ結果が出ない、食事でいうと食べられない… ということで忙しい、気持ちに余裕、ゆとりを持つことが、たった 4ケ月で 時にはしんどくなる…
次に 台所仕事は足腰の身がいる?左右の足の筋肉がパンパンになる。食後の洗い物一つにしても、皿、なべ、うつわの種類使用頻度等で入れる場所が違う(覚えなければいけない)ふきんにしても使う場所に応じて使い分けなければいけない一事が万事すべてにおいてそれなりの工夫がなされていることに気付く。
このような愚痴とも取れることを長々と書いても仕方がない…
ただ、夫婦が共に元気であればまったく気づかないことが、どちらかが病に倒れたとき、残念ながらお先にと逝ってしまったとき、残されたものの生き方は元気な時少し具体的に思いを巡らしておかなければということになる。(いざ、その時になって気づいても遅い…これはよく話されていることだ)
我が年齢も後期高齢者世代に突入する、何があってもおかしくない年齢に至っている。
元気な時こそ 『覚悟をもって日々過ごす』 ことを真剣に考えなければと… 80歳、90歳、100歳と長寿を誇る人たちが多くなってきた。
元気で老いることは “体” “精神” “喜ぶ感性” “生きる感性” が、どうなのか?ということであろう? 正道官衙ストレッチに励み、教育(今日行く)教養(今日用事がある)豊かに行動し、頭脳に刺激を与えながら今日を生きることなんだろうか? それでも、間違いなく 『老.病.苦.死』の道のりを自らの歩幅で歩み続ける“私”が今、ここにおります。
お付き合いいただきありがとうございました。 完 (yamashin)
追伸
気になる記事にが目に留まったので書き加えます。
週刊朝日 7月3日発売号の 『下流老人』造語である。内閣府調査の<世帯の高齢期への経済的備え>で60~64歳で貯蓄が「十分だと思う」と答えた人は3.6%かなり足りないと思う」と答えた人はその10倍、35.5%だった。
6月半ばに出版した新刊『下流老人』(朝日新書)で、「このままだと高齢者の9割が貧困化し、貧困に苦しむ若者も増える」と書く。<生活困窮者支援のNPO法人「ほっとプラス」の代表理事で社会福祉士の藤田孝典著>
下流老人:普通に暮らすことができず下流の生活を強いられる老人という意味で、日本社会の実情を伝える造語 <藤田孝典の造語>
『下流老人』の中で高齢者が貧困に陥るパターンを五つに大別した。
- 本人の病気や事故により高額な医療費がかかる
- 高齢者介護施設に入居できない
- 子どもがワーキングプアや引きこもりで親に寄りかかる
- 熟年離婚
- 認知症でも周りに頼れる家族がいない
このての啓発文章にはいささか抵抗があるが…と言うのは、煽る意図がなくても善意の高齢者がおののき貯蓄に走るであろう。貯蓄が悪いわけではないが、今の生活を考えながら、個々人が“覚悟”をもった人生設計が必要で、人さまとの比較や商業宣伝に惑わされた危機感や取りこし苦労はどうなんだろう?
私は今、若者の問題を我々が真剣に考えなければいけないと思う。非正規社員、契約社員が周りに増えてきている。 年金の問題もしかり…若者が結婚したくても踏み切れないという実情をどうとらえ考えるかも我々年代の責務であると思うがどうであろうか?
このホームページでは宗教、政治、その他商品販売などには触れずにおこうとは思っており、自制しているが… 政治についても既成観念にとらわれず、考えて行動していかなければならないと痛切に思っている今日この頃である。
沖縄問題 辺野古埋立… 安保法制… 秘密保護法、・・・考えを深めなければならない問題が山積している。 ちょっと枠を超えた表現になってしまったかな?ご意見を投稿欄にお寄せください (進)