NHKの沿革と放送史を紐解くと、1925年(大正14年)3月にラジオ
放送が開始され、1953年(昭和28年)総合テレビ本放送開始(日本初の
テレビ本放送)、そして、1971年(昭和46年)10月に総合テレビ全番組
カラー放送になったとある。
ラジオ放送の開始の際の興奮ぶりは人づてにしか知らないが、放送&ラジオに
ついては随分と思い出がある。
庶民、取り分け貧乏であった我家では性能の良いラジオなんて買うことが
できなかったのだろう。ラジオのスイッチを入れると、『ガァ、ガァ、ピィ、ピィ』
と選局が上手くいかず、しまいには癇癪おこしてラジオ本体を手で叩く始末。
真空管が切れているのか、ラジオは叩いても治らなかった。
だから、とぎれとぎれに聞こえるラジオに耳を傾けていると、今、聞きたい
俳優の声もあらすじも分からなくなってしまうラジオの思い出ばかりだ。
当時、茶の間の人気は“エンタツ・アチャコ”の漫才コンビに、アチャコと
浪速チエコがからむ「お父さんはお人よし」「アチャコ青春手帳」、
少し年代は変わるが、浪速チエコの「おちょやん」も、波打つような音や
『ガァ、ガァ、ピィ、ピィ』の雑音のなかから聞こえくるアチャコ・エンタツ、
チエコの声に耳を澄ましていた。
歌謡曲では島倉千代子のデビュー曲の想い出がラジオだ「この世の花」は
1955年だ、私はおませな中学生、ラジオから聞こえてくる島倉千代子の
切なくも可憐な歌声に聞き耳を立てていた。その想い出には不思議と
『ガァ、ガァ、ピィ、ピィ』の雑音は無くて心にしみる歌声が今もラジオから
聞こえてきた想い出が鮮明だ。
時代が移り変わり、トランジスターラジオ、ウオークマン、さらに、スマホと
ともに進化が…、コードレスイヤホンに加えて、音響効果抜群のオーディオテクニカ
ATH-SQ1TW2 GY ワイヤレスイヤホン Bluetooth など、音の世界は大きく変わってきた。
テレビの想いでも一杯ある。昭和28年当時テレビがある家庭は極々まれで、
風呂屋、散髪屋に街頭テレビに人が群がって観ていたという記憶がある。
日本のプロレスの火付け役でもあるシャープ兄弟、1954年に世界タッグ選手権者
として来日し、2月19日に力道山&木村政彦とタッグマッチで対戦。
この試合が日本初のプロレスの国際試合とされる。日本テレビとNHKが同時
中継し、新橋駅西口広場の街頭テレビには2万人の群衆が殺到したという。
初来日の際は5回対戦し、王座を保持したまま帰国した。悪役でもあったが紳士だ。
プロレスと共にテレビ普及に大きく寄与したのが大相撲中継だ。1955年当時の
名力士は記憶にある千代の山、鏡里、吉葉山、栃錦、三根山、大内山の熱戦で、
普及期のテレビに贔屓力士の熱戦が映し出される、ラジオと違う迫力に大相撲
人気は最高潮だった。ラジオにかじりつくは、散髪屋の外からのぞき見するは
で当時の大相撲人気を押し上げ、テレビ普及に大きく寄与した。
ところで・・・わが生家のテレビ導入も、ずっと遅く中古品の白黒テレビ、
且つ、ブラウン管だった。よく映らなくなり修理を依頼するとブラウン管交換
だけで随分高くつくと母が嘆いていた。
結婚後もローンに追われてテレビは中古で、チャンネルの取っ手壊れて
ペンチでチャンネルを回して選局すると言う時期も長かった。いまだに息子達の
笑い話で、中古のテレビの逸話を笑い飛ばしている。
我が家の電化は兎に角世間より一周も、二周も送れていた。今では4Kがいいと
しきりに言うが、画質がいいので欲しいが、手が届いていない。
最近、NHKまで民法との競争か?劣悪?迎合番組が多い、テレビの番組を
自分流にチョイスしてみるようにしなければ…、つけっぱなしに賛成しない。
テレビの導入で相対的に幼児から成長期の若人までテレビ漬けで寝る時間が
短くなっている。スマホと共に扱いは難しい問題だ。 ⑤