今年は“大根”が豊作だ! 太くって長くって安い。
想い出すのは “じゃこおろし”
大根と言えば・・・、おでん.ぶり大根.煮つけと即座に答えられるほどに、家庭料理には欠かせない野菜だ。他に凝ったメニューもある。(胡麻油香るさつま揚げと大根の煮物.鶏肉と大根の煮物.大根の照り焼き炒め.ブタバラと大根のミルフィーユ鍋.大根とブタバラの味噌バター煮等々)
私は妻の薄味でしっかりと煮込んだ鶏肉との大根煮が好きだ、いつも『うまい、うまい』と褒めながら食しているのでよく食卓にのぼる。私の好きな健康食だ。加工品では千切り大根煮も大好き。
★大根の想い出、ジャコおろし…
大根と言えば忘れられない幼き頃の思い出がある。それは“大根おろし”だ。99歳で天寿を全うした父は男の厄年42歳頃、胃腸が弱くて母がいつも胃腸に優しい“大根おろしチリメンジャコ” とか“ほうれん草のおひたし”を副食の一品として用意していた。ジャコおろしは定番だった。
父が会社から帰宅する頃合いを見計らって、母が私に『大根をすって…』と大根と大根おろし器を手渡すのである。5人兄弟の上から2番目の私、すぐ下に妹もいた、これはどうしたわけか私の 仕事になっていた。大根おろし器の扱いが上手だったのか?それとも、心情的に親思いの私の気質を母が見抜いていたのか?いつも私にその役割が回ってくる。
大根おろしは、手がだるい、必要分量をすり下ろすにはかなり時間を要した。おまけに、おろし方に注文がつく『直線的に力を入れずに、円を描くように大根をおろし器に当てておろすんだよ』と誰かが言ったので、私はそのようにして大根をおろしていた。これは大根の繊維が優しくおろされるから良いのかな~と、思いながら随分長い期間、私の仕事になっていた。
私が小学校6年生のころだから1952年(昭和27年)頃で、兄長男14歳中学2年生を頭に、私12歳小学6年生、妹9歳小学3年生、弟6歳小学1年生、末弟4歳の5人の子どもの親として、終戦後の厳しい時代に身を粉にして懸命に働いていた父の姿を“ジャコオロシ”と共に鮮明に想いだす。いつも、夜遅く帰宅し私たちが就寝する前に、食事をしていたように思う。
今思えば居残りや休日出勤をしてくれていたのであろう。細身で小柄な体ではあり、どこにそんな頑張りが出てくるのだろうと、子どもなりに親を気遣いながら心配してもいた。
★私は今もって“ジャコおろし”は好きだし、食卓で食するときも、居酒屋で食するときも、いつも、細身の父親が何かを感じながら“ジャコおろし”を食していた姿を、『胃下垂とか、胃酸過多』という病名と共に、もの悲しくも懐かしく想い出すのである。
きっと、『手がだるい!俺ばっかり』と、時には文句を言いながら大根をすりおろす私の苦労を感じながら食していたのだろう・・・。
その父がその期を十分に養生したのか、それとも、私がおろし器に大根をまるく、まるく押し当ててすりおろしていた“大根ジャコおろし”の効能が功を奏したのか、98歳ぐらいまでは家庭菜園、神社仏閣参拝、旅行、謡曲・詩吟と楽しみ一杯作って、精一杯生き抜き、1年ほどの闘病後、母を追うように母の没後1年、健康長寿で天寿を全うしたのである。
食通であり、“ジャコおろし”の対角線上にあるウナギ丼をこの上も好きであった親父は、私が すりおろした“ジャコおろし”も、味覚を研ぎすますに必要なメニューであったのではとひとり合点する私、その親父が逝って、18年の年月が早、過ぎようとしている。
私83歳、おやじの年まで16年、きっと、親父は見ているだろう。 この今の命を、私はどの様に生きているかを…。生きるかを…。