食糧事情の厳しい時代に…

食糧事情の厳しい時代に…、

竹製の飯盒に詰められた昼飯につられて、竹林作業の手伝いに励んだ昔

竹製の三段お重の飯、おかずはというとチリメンジャコが白米の上に散り交ぜられているだけ…それが、美味い!今でもはっきりと覚えている。

チリメンジャコは醤油味がつけられて白米上にのせられている。今思えばたわいのない昼食弁当だ!それが、60数年前と思えないほど想い出す。

竹製の三段飯盒は保温力もあり竹林の土入れの重労働をした後の昼食、おかずは何にもいらない!普段は粗食だった戦後の食糧難時代だ、三段お重の下の段の器には白米のご飯が多い、ひもじい顔をしていたのか、それとも白いご飯は珍しかろうと、いつも私用にあてがってくれた。

ソレが楽しみで休日には親戚の竹林作業に、いやな顔もせずに出かけたのである。そのおじさんの 持山は稲荷山の峰続きで、伏見区内の山手にあった。私は小6か中1年生であったと思う。

026

1950年脱脂粉乳とパン、鯨肉という小学校の給食が始まる。

1950年(昭和25,小6年?)で、終戦後まだまだ食糧事情が悪く、コメも配給であったと思う。給食はというと、しっかりと思い出せないが・・・、1950年(昭和25年)ごろから脱脂粉乳、 コッペパン等が思い出され、その頃に給食が始まったのだと思う。

米飯やカロリー計算をされた今の給食とは大違いだ。炊事当番が脱脂粉乳を入れたバケツをもって、アルミの食器に入れてくれた想い出がある。それでも、一食、何とかおなかを膨らませて満足していたのだ。

この頃の我が家の食糧事情はというと、『厳しい』の一言だ。想い出すのは喰い盛りの5人の子どものすきっ腹を満足させるには、とても配給米だけでは追い付かず“闇米”と代用食が欠かせない。

近所の商売上手なおばさんの家に“闇米”を買いに行くお使いも私の役割だった。

当時の我が家の台所事情は子ども心に『貧乏や!』と思っていた。だから、白米を腹いっぱい食べられる竹藪の仕事をいいつけられると喜んで出かけたのである。

中学生の時1951年(昭和26年)は、まだ給食はなくて弁当であった。鶏卵も高価、冷凍  食品などの便利な食材もなく、母には弁当作りの苦労があったことと思う。

思い出されるのは焼き鮭が一つに梅干しとか、ご飯の間にチリメンジャコや鰹節を散りばめ漬物という弁当も実に美味しく食していた。

お腹一杯に食べられれば最高で、それが普通と思っていた。だからして、お祭りやお正月に母が 精一杯のご馳走、鯖寿司、卵焼き、巻きずし、タケノコやレンコンの煮つけ等、家族で食卓を囲むとき、嬉々として食していたことを思い出す。

飽食の時代・・・、食品ロスを嘆く今時・・・、ことさら苦言を呈すのは年寄りの愚痴であろうか?