仕事.地域社会.家庭、そして『自分』を目一杯大切に奮闘してきたと思える 54歳の時、心の余裕、周囲を俯瞰する力、歓びを手繰り寄せる力が、我が思いと一つになるような充実した日々を過ごしているように感じ始めた。 会社人生の一つの区切りは60数歳…と考えると『よくぞここまで…』と思える54歳…、立ち止まって考え始めた 54歳の春だった。その時、目についたのが大阪フロイデ―『ベートーヴェン第九交響曲『歓喜』合唱団募集』の駅ポスターであった
私の心に現状を向上させながらも異環境への『挑戦!』『現状満足打破!』と、けしかける気持ちが芽生えた。 経験ではなしえないことに対する挑戦こそ ベートーヴェン第九「歓喜への」挑戦だった。 仕事場から大阪各地の練習場に駆けつけて、練習に明け暮れる厳しい3ケ月。その努力の結果として・・・
旧の朝日フェスティバルホールの初舞台でオーケストラ.ソリストと共に、指揮者外山雄三のタクトに合わせて歌った感涙の『歓喜』は、その後、毎年年末の 第九へと途切れることのない25年の長きに亘る誘いとなった。 黄金の輝きスイスジュネーブ.ヴィクトリアホール「広島3千人の第九」「隅田川国技館5千人の第九」「大阪城ホール1万人の第九」に繋がり、京都コンサートホールや隔年実施の「城陽:宇治第九」と、『年末第九』は、多くの友と繋がり、妻と共に立った舞台もあり、心震える思いの意欲が萎えない充実の年月だった。
熟老の域に達したもう一つの挑戦は『ピアノ鍵盤を自由に操る私』への願望達成であった。 65歳で全ての職を辞し、これからの老いを重ねるに必要な慶び、 心のうるおい、新しきことに挑戦する意欲を引き出すためにもと、無謀にもピアノ鍵盤を自由に操る自分を夢見て『ピアノレッスンを受けよう!』と決意したのである。音符を読み、指を動かしながらメルディを歌い 両手の指に伝え、鍵盤をたたくという68歳で初めての ピアノ個人レッスンの始まりだった。 音大を卒業され、声楽家として飛躍を期待されている先生の自宅に出向き、 週1回のレッスンだった。 レッスン日に先生から花丸をいただくことを目指しての練習時間こそ素晴らしく、そして、1週間の練習成果を先生宅でしっかりと表現するべく励んだ10数年、この 年齢の人にはあまり感じられないであろう 異質で充実した時間を過ごさせていただいた。 年少の方々にまじり、発表会の舞台にも立つこともでき、舞台では2曲演奏する。2曲目を弾き終えた時、会場から『ブラボー』のお声いただき、気恥しい気持ちと共に弾き終えた安堵感一杯だった。 70歳をはるかに超えた年齢で、第九合唱とかでの 舞台は慣れているはずなのに「このドキドキ感」は新鮮だ!!心の底から、ピアノレッスンに挑戦してよかったとの思いがこみ上げてきた。 「ベートーヴェン第九への挑戦」「ピアノ演奏への憧れ」も含めて、私にはプールに通って15年、登校児童見守り17年、孫の保育所から小6までの7年の視力矯正 通院サポート、正道官衙ストレッチを楽しむこと10年・・・ 『お元気ですね~』と、巷でお声掛けをいただく時に、「なんだろうな~」と、思いを巡らすときに、越し方の数々のご縁、切っ掛けを良きご縁として、長く続けて来られたことが、今の気持ちの張り合いとなっている。 見かけ元気の陰に病魔が…7年前に元気と思う身に思いがけない病魔が…慨嘆した。
しかし、術後まもなく元気一杯に全て事々を継続する従前の生活に…気力は蘇った。 身も心も『病には、気持ちの上で負けないぞ!』という気負いこそないが、思いはその通りであった。 しかし・・・・・・ 『コロナがもたらす我が身の 変化…、卒業、そして休会』2020年初頭、新型ウイルスコロナ感染脅威の日々がが我が身に、心の変化をもたらした。それは・・・ 長年心を潤し、心を傾けてきたピアノレッスンの卒業だ!嫁がれて大阪居住となられた先生がレッスンの為に城陽の自宅へ通われることの危なさ、大儀さ故に、歳を重ねる私のレッスン時間の調整に苦労されているやに感じ始めて…
私は『レッスンを卒業させて頂こう!』と決断をした。寂しい、実に寂しい!!
先生の優秀な資源は若い子たちに・・・との思いが私のピアノレッスン卒業の思いに導いたのだ。 第九はどうだ『昨年から休止、今年はいまだ連絡なし!』寂しい!、実に寂しい!
プール通い、ストレッチはあるものの、長年取り組んできたピアノレッスン、 第九歓喜の取組だけに・・・ 『コロナ故だろうか?年齢なんだろうか?』と、 一抹の寂しさと、我が重ねる歳を感じている私 (弱気…) そろそろ、年齢相応の時間の使い方の整理をしなければと思うようにもなってきた。まだまだ、心は萎えてはいない、しっかりと一日一日を生き切っていこうと考える81歳、春のひと時である(完)